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【緊急】津久井やまゆり園事件に思うこと

この種の事件のたびに、私たちの根底にある「弱者へのスティグマ(蔑視感)」について考えさせられます。

かつての、結核患者やライ病患者に対するスティグマは有名です。昭和47年に、有吉佐和子さんの『恍惚の人』が出ました。当時はまだあまり知られていなかった認知症を患った舅と、その長男に嫁いだ嫁との葛藤は、まさしく先見の明と言うのが妥当でしょう。

あのころは老人医療がタダで、八王子方面の老人病院では何百人という高齢者が寝かせきりの劣悪な環境の中で死んでいきました。家族の立場としては、親を施設ではなく病院に入院させているということで、後ろめたさを緩和できていたのかもしれません。もちろん、家族に要介護者がいることや、認知症患者がいることも、みな、ひた隠しにしていた時代です。介護保険がスタートして16年。だいぶ事情は変わってきたかもしれません。

翻って、精神障害の人たちに対する意識はどうでしょうか。たまに電車の中とかで(私たちからすると)奇異な言動をしている障害者を見かけるとき、心の奥底で、どこか恐怖に近い感情があることに気づかされます。また事実、精神を患った人たちが関わった事件も増えています。

介護職の話を聴くと、要介護高齢者のなかにも、関わりたくない人と、応援したくなる人がいるといいます。障害者のなかでも同様だと言います。この感覚、私は理解できます。

相模原の事件も、自分の心を制御できない人間が、関わりたくないような相手と関わってしまった場合に、こうした悲惨な事件が起きたのではないか。約150人の入所者のうち、殺傷されたのが45人。そこに「選別」があったのかなかったのか・・・。どうしても、そんなことを考えてしまいます。

思うのですが・・・。
例えば、そこらへんで見かける子どもたちでも、かわいいと感じる子どももいれば、小憎らしいと思ってしまうガキもいます。つまり、年齢や性別や職業に関係なく、「ゲゲッ」と感ぜずにはいられない(人格や人徳の低い)人はいるのだと思います。

高齢者であっても、障害者であっても、ことさら一般の人よりも大切にしなければならない・・・というのも妙な話かもしれません。人は属性ではなく人格で評価されるべきものだと思うのです。「人格」の定義がむずかしいですが、少なくとも、その場にいる誰かひとりでも「ヤバっ、こわっ」というネガティブな感情を覚えたらNoということだと思います。

福祉の世界には、「蔑視感(スティグマ)」というものがあります。これをどう克服するかは実に重いテーマですが、これがなくならない限り、福祉の世界でがんばる人たちが自分の仕事に誇りを持てないと思います。自分の仕事に誇りを持てない人が、いつまで品質のいいサービスを提供し続けることができるでしょうか?

そしてまた、社会的評価イコール処遇でもあり、いま福祉が置かれている特殊で特異な位置づけの元凶。それは、いくらひとりひとりが誠心誠意がんばっても報われない、世間の福祉というものに対するスティグマがなせる業なのだと思うのです。

では、これをどう解消していくか?

日本の超高齢化の現実を考えると、従来のような蔑視感の中で生きてきた福祉従事者とは全く違う新しい人材がどんどん入ってこなければ駄目な気がします。介護保険スタート前と比べれば、福祉に関心を示す若者はケタ違いに増えました。施設に行けば、茶髪や耳ピアスの兄ちゃん・姉ちゃんもいっぱいいるし、その多くは純粋です。しかし、彼らが福祉を学ぶ場が、もうすでに特殊・特異な世界なのです。これでは、これまでの多くの福祉従事者と結局は変わりません。

どういうことかと言うと、今の日本では、学生時代に福祉を目指そうと決めた段階で、特殊な世界に足を踏み入れざるを得ないのです。すなわち、福祉専門学校、看護学校など。そこには、同じ空間に経済を学ぶ仲間も、法律や文学を学ぶ仲間もいません。そこは、自身のポジションを外から客観的に見たり、他の分野との関連の中で認識したりすることが許されない環境です。閉ざされた福祉ワールドへ向けて敷かれたレールの上をひた走る以外にない世界です。

法学・経済学・文学等を専攻した学生たちが、例外を除いて、決してそれらの分野で社会人デビューしないのと比較すると、福祉を専攻した学生たちの(就職先という意味での)ポテンシャルのなさ、選択の幅のなさは何なのでしょうか。経済を学んだ学生が、何かのきっかけで福祉に関心を持つことは確率として考えられますが、福祉を学んだ学生が銀行や商社に進むことはまず考えられません。というか許されない。社会に出る前の、自分の進路を決めるために他のどの年代よりも幅広くいろいろなことを見聞きしなければならない時代に、学生の段階で既に枠組みを決められてしまっているのが今の日本の福祉教育なのです。

これでは、みずからスティグマを抱きこむようなものです。つまり、多くのキャンパスに、法学部、経済学部、文学部が存在するのと同じように、そこに福祉学部が存在し、そこに一時身を置いた学生も、就職段階では、普通に民間企業に歩を進められるような「ごく普通の」状況を作らない限り、いつまで経っても、福祉やそこで懸命に働く人たちのステータス、というか、周囲の目線は変わらないのではないか。そう思うのです。

例えば、総合的な意味において日本の大学のトップである東大・京大・慶大・早大などに、仮に福祉学部ができたとしたら、福祉の世界は他の世界と横並びになるに違いありません。これらの大学を卒業した若者が福祉の世界にたくさん流れ込んだとしたら、まず間違いなく福祉の世界やそこに従事する人たちの社会的評価や処遇は格段に上がるでしょう。残念ながら、形から入るしか方法はないと思います。福祉学部がどこのキャンパスにもごく普通に存在するようになってこそ、福祉の世界に対するスティグマは解消されるのです。

もしかしたら、そんな状況が具現化する日は私が生きている間には来ないも知れません。しかしながら、世界に類のない超高齢国において、これが実現することの意義は計り知れないほどのものがあります。どんなに富裕なひとであっても老いや死は避けられません。しかも、病院や施設のベッドではなく、街の片隅でひとり寂しく死んでいくことになる可能性がどんどん高くなっていきます。それが現代日本の現実です。貧富の差なく、誰しもが通る道なのです。

高等な教育を受けた有能で優秀な若い世代が流れる水のように医療福祉界に入ってくれば、そこで働くひとたちのステータスが上がり、彼らの提供するサービスの品質が高まり、私たちも含めた利用者側の満足度も向上する。そんなサービスに関与する事業体はビジネスの成果が形となり、そこで働くひとたちのプライドが満たされる。これを医療福祉のポジティブループと呼ぶことにしましょう。

これを実現するために、私は残りの仕事人生を賭けたいと思います。もちろん、儲かるしくみを回しながら。そして、社会での進路を検討し始めた若者たちが、『医療福祉の世界に進んだとしたら、結構ハッピーな未来が待っていそうだなぁー』 と実感できるような環境を一日も早く創っていきたいのです。

大事なのは、その日が来ることを信じることです。その信念と情熱をもって毎日を完全燃焼していきたいと感じています。

福祉のスティグマが解消される日を信じて。
いつの日か、永遠に来らざる日か。

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